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聖書 マタイ25章の意味・解釈について

聖書 マタイ福音書25章の意味・解釈について

牧師 谷清志


2009年度の教会標語は「神の恵みを知る」でしたが、その時に改めて思わされたのは、

「信じるだけで救われるのか、それとも、行いが必要なのか?」という点でした。

もちろん、「信じるだけで救われるし、人の行いは救いのためには一切必要ない」のですが、

そうも思えない、そう思わせてくれない聖書箇所があります。


それが、マタイ25章です。


(他にも、ヤコブの手紙「信仰には行いが必要」という表現もあるが、これは別の機会に。)



マタイ25章、イエス様のたとえ話、①花婿を迎える10人の娘のたとえ、②タラントのたとえ、③羊と山羊のたとえ

いずれも、「信じるだけではだめだよ、行いが必要だよ」と言っているように読めます。


しかーし!


そうではないのです。


中川健一師(ハーベストタイム)のマタイ福音書メッセージCDを聞いて、目からウロコ。

そして、ずっと悩んできた25章の解釈が、一応納得できるものとなりました。


①花婿を待つ10人の娘のたとえ

 『油=聖霊、聖霊を持たないクリスチャンは、外の暗闇=地獄、へ入れられる』
という意味ではない。

 24章で話された世の終わりの出来事の後の話なので、(文脈で聖書を読む必要)

 10人の娘=クリスチャンの携挙後に再臨を待つ患難時代の異邦人のこと。

 そして、油を持っているとは、携挙後に信じた人のこと、油を持っていないとは信じない人のこと。

 『愚か』という言葉は、不信仰な人・信じない人だけに使う言葉。

 信じた人のことを『愚かな人』と言う事はない。

 信じない人は、天国から除外される。


②タラントのたとえ

 『悪いしもべ』も同様。

 『悪い』とは、信じない者・不信仰の者。

 信者には、この言葉は用いない。

 不信仰だから、労しないし準備しない。だから、外の暗闇=地獄に入れられる。


③羊と山羊のたとえ

 患難時代後、主が栄光の位についた後の話。

 異邦人個人に対してなされる審判。

 「これらの兄弟たち」とは、地上に残されたユダヤ人たちのこと。

 羊と山羊の違いは、信仰があるかないか。

 信仰があれば、ユダヤ人を守る。


以上、中川健一師のメッセージを私がまとめました。

ぜひ1回は直接聞いていただきたいメッセージです。(マタイ全巻30枚CDで14000円)iTunes(あい・ちゅーんず)のPodcast(ぽっどきゃすと)で、無料公開されています。

中川師も言われていたのですが、24章25章は、とても解釈の難しいところです。

安易な解釈は、混乱を招きます。





以下、私の経験。

聖書通読する中で、心がどんより重たくなる部分がありました。

伝道集会などでは、「信じるだけで救われる!」と語られるので、そうだ!そうだ!と心は弾むのですが、

①旧約聖書の預言書(あなたを捨てるとか、滅ぼすとかのことば)

②マタイ24章25章あたりなどの、世の終わりの預言

あたりにくると、「自分は捨てられるのではないか、天国に入れないのではないか?」と悩むわけです。


牧師になってからやっと分かりました。

①旧約聖書の預言書は、背景を知ると、偶像礼拝に向かって行ったイスラエルの民が悔い改めないので「捨てる」「滅ぼす」と言われている事が分かり、これはわりと簡単に納得できました。


②しかし、マタイ25章については、解釈がおかしいのです。

例えば、チェーン式聖書の注解ではこうあります。

「キリストの再臨に備える賢い者だけが御国に入れることを教える。・・・・・・・

 このたとえでは、花婿はキリスト、花嫁は教会、花嫁の友である十人の娘は教会員(信者)、油は聖霊を指す。

 信者は聖霊に満たされて主の再臨に備える。」


 教会と教会員は、別ものか?
 花婿は、花嫁の家に行き花嫁を連れて自分の家に帰って来るのに、十人の娘が信者か?


上記の解釈では、どうしても「信じるだけで救われる」にならないのです。

悩んでいたところに、中川健一師のCDを貸してくださる方があって、真っ先に聞いたのが25章でした。

雲が晴れた!感謝!


さらに言えば、

羊と山羊のたとえ話ですが、

私の理解では、

「私は、羊にも山羊にも当てはまる。

 誰か空腹な人に食べ物を与えたことはあるし、同時に与えていない人もいるだろう。

 病院に見舞いに行った事はあるけど、同時に、見舞いが必要な人を見舞っていないこともあるだろう。

 家のない人の宿を用意したことはあるけど、同時に、家のない人に冷たい応対をしたこともある。

 どちらにも当てはまる。

 私の行いのどちらをとって裁くかは、主イエスさま次第だ。

 だとするならば、やはり、救われるのは、イエスさまを信じる以外にないのではないか?」

という結論になりました。



マタイ25章が、クリスチャンを行いへと駆り立て追い詰めるのではなく、

イエス様の恵みを知る章となるように祈っています。

ここまで読んでくださってありがとうございました。以上。

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